ハプスブルクとイタリア

倉田 稔

  

                          もくじ


   1  前史              2 ハプスブルク
 3 フランスとカール5世      4 カールの後
  5 マリア・テレジア時代      6 ヨーゼフ2世
  7 ナポレオン時代         8 ナポレオン以後
 9 1848革命         10 1848革命以後
 11 第二次イタリア独立戦争    12 イタリア王国後
 結

序 ハプスブルクとイタリアの関係を、領土問題に限って整理しておきたい。

 1 前史

 中世以来、イタリアは、ゲルマン人、東ローマ帝国、神聖ローマ帝国に、全面的にあるいは部分的に支配された。
 西ローマ帝国が倒れ、オドアケル(433ー493)(ゲルマン民族の人、西ローマ帝国傭兵隊長)の王国がそれに続き、さらに、それが東ゴート王国に代わる(1)。一方、ヴァンダル族がアフリカへ征き、またシチリア、サルデーニャ、コルシカを征服した。
 6世紀に東ローマ帝国が、北アフリカのヴァンダル族を滅ぼし、東ゴート族を滅ぼし、イタリアをほぼ征服した。その後、ランゴバルト族がイタリア本土をほぼ征服した。
 ところが北イタリアはフランク王国に取られる。そのカール大帝(742-814, 在位768-814)(800年に皇帝になる)は、北イタリアに侵攻し、ランゴバルト王国を滅ぼした。
 南イタリアでは、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)から、ナポリ、アマルフィ、ガエータなどが独立する。
9世紀に、アラブ人がシチリアを征服する。そのためイスラーム教の支配を受けた。
 一方、フランク王国は三つに分裂し、10世紀にドイツ王オットー1世がイタリア王にもなる。
神聖ローマ帝国(2)は、日本では普通、ザクセン朝のオットー1世が962年に戴冠してから始まるとされる。皇帝がドイツ王でローマ王でもあったし、イタリア北部を持ち、またイタリア政策をとっていた。ホーエンシュタウフェン家もイタリアを取ろうとした。王朝が代わっても、北イタリアは、イタリア王国という名で、神聖ローマ帝国によって支配されていた。
12世紀、ノルマン人がシチリア王国をつくる(3)。その後、シチリアはホーエンシュタウフェン家が支配する。
 フランスは、シャルル・ダンジューが出征して、南イタリアを支配する。アンジュー家のシャルル、カペー系アンジュー家の祖である。イタリアではカルロ一世(1227-1285)。シチリア王(実際の在位 1266-1282),後にナポリ王(在位 1282-85)。だが13世紀にシチリアでシャルルが追放される、そして南本土だけを持つことになる。その後、シチリアはアラゴン(スペイン)に支配される。

(1) 拙稿「イタリアとミラノ」(『言語文化センター広報』24号、2016年1月)で少し述べたので、省略する。(研究)松谷健二『東ゴート興亡史』白水社。
(2) 『神聖ローマ帝国』岩波書店。
(3) 高山『両シチリア王国』講談社。


 2 ハプスブルク

 ハプスブルク家が神聖ローマ帝国皇帝になって、その初代ルドルフ1世(1218ー1291)はイタリアを攻めなかった。このルドルフ・フォン・ハプスブルクは,ドイツ王(1273-1291)で、王朝の本拠をウィーンにおいた。ローマ王に戴冠しなかったという。(4)
その後、長い間ハプスブルクはイタリアに拘わらなかった。ハプスブルク中興の祖マクシミリアン1世(1459-1519)(5)は名目的に北イタリアを持っていた。だが、ハプスブルクとイタリアは、カール5世の時代から支配・被支配の関係が全面的に生じた。
 教皇国家の北は、ヴェネチアを除き、神聖ローマ帝国つまりイタリア王国だった。したがってマクシミリアンはこの土地を持ったのだ。
 形式的には、フィリップ美公がフアナと共に、スペインの共同王になった。その子カール5世は同じく、ナポリ、シチリア、サルデーニャ王国を持った。

(4) ヴァントルーシュカ『ハプスブルク帝国史』(谷沢書店)、
(5) マクシミリアン。江村洋『中世最後の騎士』。


 3  フランスとカール5世

 フランスのヴァロワ家のシャルル8世(1470-1498、位1483ー1498)(6)は、ハプスブルクのマクシミリアン1世とその妃マリーの娘であるマルグリドと結婚し(7)、その後、離婚して、アンヌ・ド・ブルターニュと結婚した。アンヌの実家が治める領地を欲したからである。
 フランスは百年戦争(イギリスとフランスの戦い、1337-1453年まで、カペー朝が絶え、ヴァロワ朝とイングランドが王位を巡って争った)が終わって、シャルル8世が1494年にイタリア遠征をし、1495年、ナポリを占領した。彼はナポリ王国の継承権を主張していた。そしてナポリ王になった。だが、ヴェネチア、教皇、ミラノ公の連合軍に追い出され、フランスに戻った。彼はうっかり石の鴨居に頭をぶつけて事故死し、ヴァロワ本流が断絶した。
 その後ナポリはアラゴン(スペイン)が持つ。
ヴァロワ家傍流のルイ12世がフランス王として即位した。彼はかつてシャルル8世のイタリア遠征に参加した。ジャンヌと離婚し、シャルルの妃であったブルゴーニュ公女アンヌと結婚し、2女をもうけた。この国王ルイ12世(位1498-1515)は、シャルル8世の失敗したイタリア戦争を1499年に再開し、ミラノを1500年に占領した。だが、フランスのイタリア介入を嫌うローマ教皇の連合軍によって1513年ミラノから、追放された。ルイ12世はナポリの一部も占領したが、アラゴン王フェルナンド2世によって武力で追放された。フェルナンド2世はナポリ王国の傍系だったからである。
 カール5世(1500-1558)(8)は、マクシミリアン1世の孫である。父はフィリプ美公で、母はフアナ(9)である。そのため、祖父からの広大なハプスブルクを引き継ぎ、祖母の北フランス、ベルギーを引き継ぎ、母からのスペイン王国を引き継いだ。
 ルイ12世の娘クロードとフランソワ1世(位1515ー47)が結婚した。そのフランソワは20才で王になり、そのライバルはカール5世である。彼はイタリア遠征を続け、1515年、ミラノ公国を占領し、スフォルツア家を追放した(10)。フランソワ1世は、ルネッサンス王でもある。この遠征途中、ボローニャでレオナルド・ダ・ヴィンチと会う、そして彼をフランスに招く。ダ・ヴィンチは、1516年、ミラノを立つ、そしてクロ・リュッセ館を与えられる。
 フランソワ1世はカールとの戦いで、オスマン・トルコと手を結んで対抗しさえした。フランソワ1世は、皮肉なことに、後に、敵カール5世の姉と結婚するにいたる。
 フランソワ1世の息子アンリ2世の妃として、カトリーヌ・デ・メディチ(11)がなる。フランス読みでは、メディシスとなる。アンリ2世の愛人は、ディアーヌ・ド・ボワチエで、彼より20才年上だった。
ヴァロワ家系図

 フランソワ1世
        |
   アンリ2世   = カトリーヌ・ド・メディシス
                    |
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フランソワ    シャルル      アンリ    マルグリート = アンリ  = マリ・ド・
2世          9世          3世          (12)        4世       メヂシス

 1516年、カルロス1世=カール5世(1500-1558)がスペイン王になった。カールは、ブルゴーニュ公だったが、またハプスブルク家領を継いだ、ナポリ王国、シチリア王国、サルディニャ王国は、スペインのカールの属国となった。新大陸や、南米、フィリピンまで継いだ。教皇国家の北は、ヴェネチア共和国を除き、神聖ローマ帝国の領域・イタリア王国であった。こうしてカールがイタリアの主人公になる。
 イタリアを統治するイタリア諮問会議は、スペインから代官が派遣されるようになった。
1519年、カールは、神聖ローマ帝国皇帝になり、カール5世となる。その選挙の対抗馬、フランスのフランソワ1世は落選した。
 カール5世は、スフォルツア家のフランチェスコ2世にミラノを与えた。
 1522年にブリュッセルで、カール5世とその弟フェルディナントは密かに帝国を二分して将来治めることを決めた。
 カール5世とフランソワ1世は4回、イタリア戦争をすることになる。
 1521年、フランスのフランソワ1世と、カール5世は、イタリアを奪う戦争を北イタリアで再開した。皇帝と教皇の連合軍は、ミラノのフランス軍を追い出した。
 1525年にもカール5世はパヴィアでフランソワ1世と戦う。フランソワ1世は捕虜となる。講和をしたのだが、1526年、すぐ再びフランソワ1世がクレメンス7世教皇と共に、カール5世と戦う。だがフランソワ1世は負け、1526年フランスは北イタリアを放棄させられる。
 1527年、カール5世は、教皇をこらしめるためにローマに軍勢を差し向けた。教皇軍は敗北し、皇帝軍はローマで略奪の限りをつくした(13)。ローマの文化人・芸術家は殺されたり、逃亡したりした。この惨事をもって、盛期ルネッサンスは終焉した。
 1529年8月のカンブレーの和約で、カール5世は北イタリアをとる。
 1530年にフィレンツェに侵攻し、アレッサンドル・デ・メディチ(1510-1537年)が、カール5世の援助でフィレンツェ大公になる。カールはメディチ家を臣下として再興させる。このアレッサンドロは、教皇クレメンス7世の庶子で、イル・モーロつまりムーア人とあだ名された。カール5世の庶出の娘と結婚し、後に暗殺される。
 1535年、ミラノ公国は、スペインの王の支配に入った。つまりカール5世にである。こうしてハプスブルクに編入された。以後、ミラノ公国はハプスブルクの所領となった。
 1535年、カール5世とフランスのフランソワ1世とがイタリア戦争を再開した。これは1549年クレスピーの和約で終わった。
 この間 1547年にフランソワ1世が急死し、アンリ2世が継いだ。
 1556年、カール皇帝は退位した。カール5世は、王としては、(シチリア王1516-56年),(ナポリ王1515-1554年)、ローマ王(1519-53年)でもあった。
  ハプスブルク系図   1

                   イサベラ=フェルナンド
                           |            マクシミリアン1世=マリア
                        ーーーーーー                   |
                       | |     |                  |
                                 フアナ        =   フィリップ
                                               |
                                               カール5世
                                                  |
                                              フェリペ2世


(6) ボッカチオ「デカメロン」では、彼は禿頭だったとある。
(7) A.Brown and G. Small, Court and Civic Society. Manchester & NY .2007/
(8) 江村洋『カール5世』。
(9) 西川和子 『狂女王フアナ』彩龍社。
(10) ヴェルディのオペラ「リゴレット」のマントーヴァ公爵は、フランソワ1世の名を変えた存在である。
(11) 桐生操『王妃カトリーヌ・ド・メディチ』新書館。
(12) この人が、アレクサンドル・デュマの描く、かの有名な王妃マルゴ(1553-1615)である。『王妃マルゴ』上下、河出書房。映画にもなった。
桐生操『王妃マルグリッド・ド・ヴァロワ』PHP文庫。
(13) アンドレ・シャステル『ローマ劫掠』筑摩書房

 4 カールの後

 1556年、カール皇帝が退位し、息子フェリペ2世(14)がスペイン国王になる。カール5世の退位後、ミラノをフェリペが支配した。
 1559年、カトー・カンブレジ(フランスの一村)和約で、イタリアをめぐるスペイン・フランス戦争が終わる。講和が、フランスとスペインの間でなされた。フランスはアンリ2世、スペインはフェリペ2世で、フランスはイタリアへの権利を放棄し、スペイン・ハプスブルクが、ミラノ、ナポリ、サルデーニャ、トスカーナをとる。フランスはロレーヌをとる。ついでに、フェリペ2世はアンリ2世の娘エリザベートと結婚する(15)。フィレンツェのメディチ家はシエーナを得た。
 講和の際の、祝賀の騎馬槍試合でアンリ2世は右目を突かれ、それがもとで急死した。
 この年1559年にナポリ副王にアルカラ公が着任した。副王の直轄地は、ミラノ公国、ナポリ公国、サルデーニャであった。
フェリペ2世は父カールのように政治家としては有能ではなかったが、勤勉に政務をとった。ただしその狂信的カトリック政策のためにオランダを失った。他方でフェリペ2世の時代にスペインは世界的な広大な王国になった。
 その後、息子のフェリペ3世が継いだ。彼は病弱で怠惰王とよばれたが、同じく、1598-1621年、ナポリ王、シチリア王になった。北イタリアも相変わらず所有した。
 その子フェリペ4世(16)が跡を継いだ。その後をカルロス2世(1661-1700)が継ぎ、最後のスペイン・ハプスブルク王となった。彼は病弱で、子供ができなかった。1700年に死去し、ハプスブルクは断絶した。カルロス2世は遺言で、ルイ14世の孫フィリップに王位を譲った、そのため、スペイン継承戦争が勃発し、イギリスとオランダとオーストリアが、フランスとスペインと戦った。英蘭が反仏同盟を作り、アウグスブルグ同盟である。国際戦争になった。フランスの押す、ルイ14世の孫フィリップがフェリペ5世として即位した。以後スペインはハプスブルクからスペイン・ブルボン家のものになる(17)。ハプスブルクは東方の帝国の主人だけとなった。
それでも、イタリアについては、1707年、オーストリア軍は、ミラノ、マントーヴァを占領し、ナポリ王国を征服する。ミラノのドウオーモ広場の、ドウオーモに向かって右側に、ハプスブルクの邸宅がある。フランスはピエモンテに侵入、トリーノを包囲する。これをオーストリアの将軍オイゲン・フォン・サヴォイ(1663-1736)が攻撃し、勝利する。彼はサヴォイ出身のオーストリアの将軍である。1707年 オーストリアは、ミラノその他、ナポリ王国を奪った。もちろんトスカーナはそのままである。1708年、オーストリア軍は、サルデーニャを占領した。1713年、ユトレヒト条約で、継承戦争は終わる。1714年のラシュタット条約と共に、オーストリアはミラノ、マントーヴァ、ナポリ、サルデーニャ、警護国家をとる。サヴォイはシチリア王国をとる。このためサヴォイは公だったが、王と呼べることになる。シチリアが王国だからである。その後、サヴォイ・ピエモンテは、シチリアを取られ、サルデーニャ島を代わりに与えられる。ハプスブルク・オーストリアは、ほとんどのヨーロッパ、つまり、ベルギー、ミラノ、サルデーニャ、ナポリを得た。イタリアの支配者は、スペインからオーストリアに代わった。といっても同じくハプスブルクである。イギリスは、ジブラルタル、ミノルカ、カナダの1部、大西洋航路(奴隷貿易と中南米航路)を得る。その後、フランス側が攻勢に出る。1720年、オーストリアがシチリア王国を領有する。1735年の和で、オーストリアが、ミラノ、マントーヴァ、ピアチェンツアをとり、フェリペ5世の子カルロがナポリ王国、シチリア王国をとった。

(14) 西川和子『スペイン フェリペ2世の生涯』彩流社。
(15) シラーの劇や、オペラ「ドン・カルロス」の題材になる。
(16) 佐竹謙一『浮気な国王フェリペ4世の宮廷生活』岩波書店。
(17) 『スペイン史』山川出版。

 5 マリア・テレジア時代

 ハプスブルクのカール6世が死ぬと、諸国は女性の跡継ぎ、つまりマリア・テレジア (1717-1780)(18)を認めないとし、フランス、スペイン連合軍が、イタリアに上陸した。そしてオーストリア、ピエモンテ連合軍と戦う。オーストリア継承戦争である。この間、プロイセンがオーストリアを攻める。
 1748年、アーヘンの和約で、オーストリアはミラノ、トスカーナ大公国、フランス・ブルボンはナポリ、シチリア両王国とパルマをとった。
さて、フランツ・フォン・ロートリンゲン (1708-1765)がハプスブルク帝国の継承者マリア・テレジアと1736 年に結婚し、その所領ロートリンゲンがハプスブルク領になったが、このロートリンゲンが領地交換されることになった。国際政治の巻き添えを受けたのだ。フランツにとっては屈辱であった。1730年にメディチ家が断絶し、フランツ・シュテファン(・フォン・ロートリンゲン)が、トスカーナ大公になる。つまりトスカーナと交換されたのである。ロートリンゲンはドイツとフランスの簡にあり、そんなところにハプスブルクの領地があるというのは困るということであった。フランツは、断絶したメディチ家の後釜にさせられたのであった。
 フランツとマリア・テレジアの結婚で、ハプスブルク家はハプスブルク・ロートリンゲン家と言われるようになったが、実際はそれも束の間であって、皮肉である。ロートリンゲンを失ったからである。ロートリンゲンはフランスではロレーヌと呼ばれる。イタリアにとっては、トスカーナは突如、ハプスブルクに領有されたわけである。
 1738年、オーストリアは、ミラノ、マントーヴァ、パルマ、ピアツエンツアの領有を認められる。
 こうしてほぼ北イタリアはハプスブルクの版図に加えられた。
 1740年、北イタリアで、オーストリア・サルデーニャ連合軍が、スペイン・フランスと戦う。
 1746年、オーストリア占領軍に対し、ジェノアの民衆が叛乱した。
オーストリアのフランツ1世、つまりマリア・テレジアの夫は、1737-65年にトスカーナ大公、 マリア・テレジアは、1740-80年にミラノ公、1740-48年にパルマ・ピアツエンツア公であった。

(18) カール6世の娘。オーストリア大公。ハンガリー女王、ボヘミヤ女王も兼ねる。江村洋『マリア・テレジアとその時代』、稲野強『マリア・テレジアとヨーゼフ2世』山川出版社、ライティヒ『女帝マリア・テレジア』上下、谷沢書店

 6 ヨーゼフ2世時代

マリア・テレジアの長子ヨーゼフ2世(19)は、父フランツなきあと神聖ローマ帝国になり、母マリア・テレジアとの共同統治期をへて、1780-90年に単独統治をし、1780-90年にミラノ公であった。弟レオポルト2世は、父フランツが亡くなって、その跡を継ぎ、1765-90年にトスカーナ大公になった。また兄のあとを継いで、90年に 神聖ローマ帝国皇帝になるが、同時に、1790-92年にミラノ公を兼ねた。
 ヨーゼフ2世の啓蒙でミラノ公国も近代化し、トスカーナも弟レオポルト2世(1747-1792) (啓蒙主義皇帝)で近代化される。
ハプスブルク系図 2
 フランツ1世 = マリア・テレジア
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     ヨーゼフ2世         レオポルト2世       マリー・アントワネット
                              |
                           フランツ2世
                               |
                           フェルディナント1世


(19) マホフスキー『革命家皇帝 ヨーゼフ2世』藤原書店。

 7 ナポレオン時代

 ナポレオン(1769-1821)の時代になった。ナポレオン時代に、ミラノをフランスがとり、ヴェネチアをオーストリアが支配とする。ナポレオンはイタリア王となり、イタリア全土をとる。例外は、オーストリアのヴェネチア、サヴォアのサルデーニア、ブルボンがシチリア島である。
 1796年、ナポレオンはイタリア遠征する。彼はイタリアを支配した。ハプスブルクはナポレオンと戦い、屈服し、和平をした。ヴェネチアについて言えば、ヴェネチアはナポレオンに屈服し、ヴェネチア共和国は終焉した(20)。ナポレオンの軍隊がヴェネチアに入るが、ほどなくナポレオンは、同盟したハプスブルクにヴェネチアの支配をさせた。1797年、オーストリアはヴェネチアを獲得した。ヴェネチアのサンマルコ広場に面する邸宅群の中に、ハプスブルク宮廷がある。
 1799年、オーストリアはイタリアをフランスから奪還する。
 1800年、ナポレオンは、第二次イタリア遠征をする。1801年に北イタリアを保護国にする。1805-14年にイタリア王国を作った。ただし北イタリアだけである。

(20) 塩野七生『海の都の物語』新潮文庫、最終冊。

 8 ナポレオン以後

 その後ナポレオンが負けると、1815年、オーストリア支配のロンバルディア、つまりヴェネト王国が成立する。これ以降はここはハプスブルクの下に入った。一方で、1817年、オーストリア軍は、両シチリア王国から撤退した。ロンバルディア・ヴェネト王国の総督には1849-1857年、ヨーゼフ・ラデツキー元帥(1766ー1858)がなった。(21) ハプスブルクのフランツ2世は、1792-1806年にミラノ公、1815-35年にロンバルディア・ヴェネト国王である。フランス革命やナポレオンの時代なので、彼は保守化する。彼はミラノで生活していた。神聖ローマ帝国皇帝としてはフランツ2世、オーストリア皇帝としてはフランツ1世である。ナポレオンによって神聖ローマ帝国が壊されたので、最後の神聖ローマ帝国皇帝となった。
ハプスブルクのフェルディナント1世は、ロンバルディア・ヴェネト国王(1835-48年)であったし、フランツ・ヨーゼフ1世(22)は、それを継いで、同王(1848-59年)であった。
 ナポレオン後、メッテルニヒ(1773ー1859)(33)がすべて指図した。クレメンス・フォン・メッテルニヒは、オーストリアの大使、外相、1821年から宰相である。ナポレオン戦争前の国際体制に戻すという正統主義を唱え、このウィーン体制のもとで北イタリアはオーストリアに支配されていた。
 メッテルニヒは、炭焼党弾圧に本腰を入れた。炭焼党は、カルボナリといわれ、1806年ころナポリで結成された。イタリアとフランスでの革命的秘密結社である。1820年には大勢力になる。初めナポリに本部を置き、イタリア全土に支持層を広げた。自由平等をかかげた。厳しい規律をもった。ナポレオンのイタリア支配で発生した。1820年頃は、党員が30万とも60万人ともいわれた。
1820年にナポリで一斉蜂起がなされ、国王フェルナンド4世に憲法を約束させた。1821年にトリノで革命を起こした。オーストリアからの解放を掲げて蜂起した。これに対しオーストリアは鎮圧に乗り出す。1821年、メッテルニヒは、オーストリア軍を出兵させ、ナポリを占領し、ピエモンテに侵入し、革命軍を破った。カルボナリ党は本部をパリに移す。1830年のパリ革命に参加、中部イタリアで革命を起こす。しかし、オーストリアが鎮圧した。中心人物は、ピエトロ・マロンチェッリ、シルヴィオ・ペリコ(1789 - 1854)らである。メッテルニヒは中心人物を逮捕し、シュピールベルグ監獄へ入れた。ペリコやマロンチェッリである。1820年にペリコは捕まる。ペリコには『獄中記』がある(24)。これは広く読まれ、メッテルニヒの心胆を寒からしめた。シュピールベルグ監獄は、ハプスブルクの有名な怖ろしい監獄で、啓蒙皇帝ヨーゼフ2世が一時閉鎖したが(25)、退位後、復活されていた。
 マッツイーニは、炭焼党を離党し、亡命し、マルセイユで青年イタリア党を作る。ここに加わり、陰謀を計画した人々は、失敗し、各国政府とメッテルニヒの警察に捕まり、処刑された。青年イタリアには多くのイタリア人が加入していた。
 ガリバルディは、ニースに1807年に生まれ、ニースは、ピエモンテ・サルデーニャだったが、1792年からフランス領であり、1814年、フランスから返還された。
 ガリバルディは26才の時、マッツイーニに会いに行き、「若いイタリア」に加入する。マッツイーニは彼に陰謀を与える。ガリバルディは兵役のためとして、1833年、ジェノアで入隊した。ピエモンテ・サルデーニャ最大の軍港だ。陰謀により兵舎を占領するはずが、起きない。共和派は事件が失敗し、逃亡した。ガリバルディも逃亡した。彼はフランスで逮捕され、死刑宣告を受ける。リオ・デ・ジャネイロ(ブラジル)へ亡命する。マッツイーニはロンドンへ亡命する。
 パルマ公国はマリー・ルイズが統治した。
 ハプスブルク系図 3
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                           |                 |
                    フランツ2世            カール大公
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          ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
          |                        |                 |
ナポレオン= マリー・ルイズ  フェルディナント1世         フランツ・カール
1世                                                       |
                                              フランツ・ヨーゼフ1世


(21) ヨーゼフ・ロートの大河小説『ラデツキー行進曲』がある。ただしラデツキーを扱ったものではない。
ラデツキーは、1836年に元帥、1849-57年にロンバルディア・ヴェネト王国の総督。
(22) 江村洋『フランツ・ヨーゼフ』東京書籍。
(23) 1848年革命で亡命。
(24) ペリコについて、大塚金之助『解放思想史の人々』岩波新書、後に『大塚金之助著作集』岩波書店、に入る。
(25) マホフスキー『革命家皇帝 ヨーゼフ2世』藤原書店。

 9 1848革命

 この年、革命が起きる。1848年1月、パレルモで民衆は権力奪取し、国王は憲法を承認する。トスカーナでも大公は憲法を約束する。1848年2月、ルイ・フィリップがパリを追われる。3月、カルロ・アルベルト(1798-1849年)は憲法を承認する。ミラノで戦闘がおき、民衆がオーストリアのラデツキー将軍に勝利した、ヴェネチアで民衆がオーストリア軍を追い出した。ピエモンテで王国軍が出陣する。
 ピエモンテは、北イタリアのトリノ地方にある。サヴォア家が統治していた。そのヴィットリオ・エマヌエレ1世(1759-1824.)(26)は退位した。カルロ・アルベルト(27)が摂政になる。
 亡命のガリバルディ(1807-1882年)(28)は、南アメリカのリオ・グランデとモンテビデオの共和国のために戦う。アニータと結婚する。彼女は混血だ。2人は一緒に戦う。彼は将軍になった。帰国して戦うことになる。ガリバルディはイタリアで有名になっていた。カルロ・アルベルトも戦うことにした。ガリバルディは1848年、モンテビデオを発つ。

(26) サルデーニャ王国国王。首都トリノがフランスに占領されていた。ウィーン会議で湿地回復して、トリノに戻った。古い政治家・弟のカルロ・フェリーチェに譲位した。
(27) カルロ・アルベルト。サヴォイア家の出。優柔不断だった。
(28) イタリア王国成立に貢献した軍事指導者。青年イタリア党、そしてカルボナリ党にも入る。1842年、ブラジルでアニータと結婚。1860年、千人隊を組織し、両シチリア王国を征服。その後、征服地をヴィットリオ・エマヌエレ2世に献上した。伝記、ガロ『イタリアか死か』中央公論。藤沢『赤シャツの英雄』洋泉社。

 1848年6月21日、ガリバルディの船がイタリアに着く。ニースへ向かい、ホテルで祝賀会が催される、カルロ・アルベルトと組むと、彼は言う。4月28日、ジェノワへ行く。ガリバルディとカルロ・アルベルトは、対面する。
 ミラノ臨時政府はガリバルディを将軍にし、1849年、憲法制定議会で議員になる。ローマ共和国ができる。
 1848年のヨーロッパ革命が時代を画した。フランス、ドイツ、ハプスブルクで革命(29)がおこった。皮肉なことに、ハプスブルクでは国立ミラノ煙草工場のストライキから始まった。1月、ミラノ市民とオーストリア駐留軍が衝突した。
サルデーニャ王国がオーストリアに開戦した。北イタリアでは市民がオーストリア軍を追い出したが、オーストリア軍がサルデーニャ王国軍に勝利したので、再びオーストリアが復活した。クストーザでラデツキー将軍に敗北したのだった。つまり1848年7月、北イタリアのヴェローナ近くのクストーザでサルデーニャ王カルロ・アルベルトの軍がオーストリア軍と戦って負けた、1849年、ノヴァーラの戦いでオーストリア軍はサルデーニャ王国軍に勝利した。第一次イタリア独立戦争であった。ここで活躍したのはガリバルディである。

(29) R. John Rath, The Viennese Revolution of 1848. 第一節の部分訳は、小樽社会史国際研究所HPに出る。

10 1848革命以後

 1848年革命の反動で、イタリアは再び元に戻った。ガリバルディはニューヨークに亡命する。
 1850年代の初め、外国に支配されていたのはこうである。ロンバルディアとヴェネチアはオーストリアの支配下にあり、教皇領の一部のロマーニアにはオーストリアの占領軍がいた。
 革命の反動が始まる。ラデツキー将軍がピエモンテ軍を押し出す。7月、クストーザで、ピエモンテ軍が、ラデツキー軍に敗北する。
 1849年3月23日、ノヴァーラでオーストリアはピエモンテ軍をなぎ倒す。
 カルロ・アルベルトは退位して、息子・ヴィットリオ・エマヌエレ2世(1820-1899年)(30)に譲る。
 オーストリア軍が、1849年5月 フィレンツェに入城する。フランス軍がローマを制圧し、ガリバルディはこれと戦う。彼は敗れて、唯一の共和国ヴェネチアに向かう。途中で、同志・妻アニータが戦死した。海に出るとオーストリアの艦隊が迎え撃つ、これでヴェネチアには行けなくなった。彼は北イタリア中を逃亡するも、捉えられ、ニースへ送還された。ヴェネチアもオーストリアの手に落ちた。1850年、ガリバルディはニュー・ヨークへ亡命する。

(30) 1861年のイタリア王国の成立で国王。彼を継いだのは、息子ウンベルト1世。

11 第二次イタリア独立戦争

 革命から10年たった。サルデーニャ王国を中心として、国を統一することになった、ヴィットリオ・エマヌエレ2世を中心としてである。同王はカルロ・アルベルト国王の息子であり、父と違い有能な政治家であった。カミロ・ベンゾ・カブール(1810-1861年)(31)は、1852年から10年間、サルデーニャの宰相であった。彼と違った民族主義革命派は、共和主義者ジュゼッペ・マツツイーニ(1805-1872年)(32)、そしてジュゼッペ・ガリバルディであった。カブールはフランスを取り込んで統一を実現しようとした。
 ガリバルディは世界を船で貿易に従事している。ロンドンで夕食会があり、マッツイーニ、コッシュート、ゲルツエン、ルドリュ・ロランと、会う。彼はニースに帰る。大金が入り、1855年にカブレーラ島の半分を買う。1857年から住む。彼は言う、自分は共和主義だが、今はできないと。マッツイーニの企ては、無益で人命を犠牲にするだけの蜂起だ、と。彼は国民協会に加入する。イタリアとヴィットリオ・エマヌエレをモットーにしたものだ。マッツイーニはそれを裏切りだ、と批判した。
 カブールは、フランス皇帝ナポレオン3世(1808-1873年)(33)を引き込む、そして準備する。第二次イタリア独立戦争が開始された。1859年3月3日、ナポレオン3世は宣戦布告する。ガリバルディを幕僚長に、義勇軍の司令官にする。ピエモント・サルデニアがフランスと組み、オーストリアと戦う。フランス軍とサルデニア軍は、合流する。フランスもオーストリアも準備不足だった。6月4日マジェンタで、6月20日、サルデーニャとフランスがソルフェリーノで勝利する。この戦いでガリバルディ部隊が活躍した。北イタリア諸都市の君主たちが追い払われる。ここで休戦に持ち込まれた。フランスとオーストリアが和睦した。しかし、ヴェネチアがオーストリアの手に入り、ローマは教皇の手に入る。ナポリ、パレルモがブルボン家の下に入る。1859年7月、ヴィラフランカの休戦協定が成った。フランツ・ヨーゼフ(34)はナポレオン3世に、ロンバルディアを譲った。ピエモンテにそれを譲るのは自由だと。ミラノとロンバルディがイタリアのものになった。ニースとサヴォアはフランスに属した。オーストリアはヴェネチアとヴェネトを維持した。その後、フランスはロンバルディアをサルデニアに委譲した(35)。これ以降オーストリアはイタリアに介入しないことになった。
 イタリアの南部、両シチリア王国で、ブルボン家のフェルディナント2世がフランチェスコ2世へ王位を譲った。ガリバルディは南部の革命家に懇願され、出兵した。1860年、千人余の船がジェノワを出る。シチリアに上陸した。二隻だ。ブルボンの兵隊は負ける。パレルモまで勝利の進軍だ。千人隊は熱狂して迎えられる。パレルモの戦いで、市民が政府軍に対しバリケードを作る。船でブルボンの兵隊が離島する。60年7月、シチリアがガリバルディの下に入る。シチリアの農民騒動を、しかしガリバルディは鎮圧する。彼はシチリアからナポリへ向かう。60年8月、海峡を渡る。ブルボン勢力を倒してゆく。9月、ナポリに入る。王はガエータへ逃げる。サルデーニャ軍もナポリに入る。
 選挙で、ヴィットリオ・エマヌエレの王国にすべて入ることになる。フランス軍は、ローマから撤退。ここでイタリアに入らないのは、ヴェネチア(とヴェネト)と教皇領だけとなった。
1861年、ピエモンテ・サルデーニャ王国が成立し、ヴィットリオ・エマヌエレ2世が初代国王になった。教皇ピウスは困った。

(31) カヴール。ヴィットリオ・エマヌエレの宰相。イタリア王 国では首相・外相。
(32) ジェノヴァ生まれ、ジェノワ大学卒業。カルボナリ党に入る。その後、イタリアを自由な統一した国にしようと青年イタリア党をつくる。革命家。現実を見るよりも理想に重きを置いた。第1インタナショナルに入るが、マルクスらと対立した。主著「人間の義務について」岩波文庫。藤沢房俊「マッツイーニの思想と行動」太陽出版。
(33) 名はルイ。ナポレオンの甥。1852年、皇帝になる。
(34) 江村洋『フランツ・ヨーゼフ』東京書籍。
(35) ソヴィエト科学アカデミー『世界史 近代 6』東京図書。

 12 イタリア王国後

 1861年にイタリア王国が成立するが、ローマとヴェネートは除かれた。近代のイタリアの歴史で初めて統一国家ができたのである。その一番の功績は、ガリバルディにあっただろう。
 1865年、ナポレオン3世は、ビスマルクを迎える。プロイセンがオーストリア攻撃を準備する。イタリアがプロイセンと組む、フランスは中立となる。もしプロイセンがオーストリアに勝てば、イタリアはヴェネートを併合する約束だ、ナポレオン3世とウイーンの間ではこうなった、オーストリアがドイツに勝てば、オーストリアはヴェネートをナポレオン3世に譲る、これをイタリアに返還してもよい。ナポレオンは中立だ。イタリアはしかし戦わねばならない。
 1866年、イタリア宰相がガリバルディを訪れ、志願兵の指揮をとってくれと頼む。第三次イタリア独立戦争が始まった。ガリバルディはチロルへ向かう。66年6月25日、イタリア軍はクストーザでオーストリア軍に負ける。オーストリア・プロイセン戦争が行われ、1866年7月3日、ケーニヒグレーツ(Königgrätz ボヘミヤ)とサドワ村の中間での戦いでプロイセンが勝利したのだった。7月20日、アドリア海のリッサで、イタリアは、オーストリア艦隊に負ける。ガリバルディの軍だけ辛勝した。
 7月22日、プロイセンは、オーストリアと休戦した。7月26日、イタリアとオーストリアで一週間の休戦をする。
 これに刺激されて、トスカナ、モデナ、ロマーニャ、パレルモが、臨時政府を作り、サルデーニャ王国に加わると決断した。ナポレオン3世はオーストリアと講和した。ヴェネートはフランスからイタリアへ譲られた。住民投票でも承認された。
これでほとんどがイタリア領になった。
 ローマは教皇のものだった。イタリアの王国に入らなかった。だが教皇領はフランスが監視している。1867年に、ローマ解放を目指すガリバルディ軍が蜂起したが、フランス軍に鎮圧された。
 1870年7月、独仏(普仏)戦争が始まる。8月、フランスは、ローマ駐屯軍を撤兵する。そこで9月、カドルナ将軍のイタリア王国軍が教皇領に侵入し、ローマを占領した。10 月、ローマとラツイオは、住民投票で、イタリア王国に編入された。1871年12月、首都はフィレンツェからローマに移った。
 こうしてほとんどがイタリア王国に統一された。
 ただしチロルはまだだった。北チロルも南チロルもオーストリア領だった。南チロルがイタリアに帰属するには、第一次大戦(36)でオーストリアが1918年に敗北してからであった。イタリアは第一次大戦では、三国同盟にもかかわらず初め中立であった。その後、協商国側についた。協商国側が勝ったので、オーストリアから南チロルを回復した。南チロルにイタリア人が多いという理由からである。ただしフィウメは(37)イタリアのものにならなかった。
 北イタリアの2都市、トレント(ドイツ語ではトリエント)とトリエストも、ほぼハプスブルクに支配されていたが、第一次大戦後、イタリアに帰属した。

(36) テイラー『第一次世界戦争』新評論。 (37) 南チロル、フィウメを含むクーステンランド(アドリア海の最奥の半島)、アドリア海の幾つかの島々、の3つは、協商国側(英・仏)がイタリアを味方に付けて第一次大戦に参戦させるために、これらを与えるとして持ち出してきたのであった。フィウメはイタリア語であり、リエーカはユーゴスラビア語で、かつオーストリア・ハプスブルク側もリエーカと呼んだ。港町である。オーストリア・ハプスブルクでは港がないので、ここは重要だった。       フィウメはクーステンランドの東端にあり、15世紀にオーストリアの支配下に入り、1717年に自由港となった。1867年のオーストリアとハンガリーのアウスグライヒ(妥協)で、ハンガリーの管理下に入った。だが第一次大戦で、フィウメはイタリアのものにならなかった。第二次大戦後、ユーゴに帰属し、現在はクロアチア領である。



 イタリアは、カール5世のころから400年に亘り、ハプスブルクのほぼ全面支配あるいは部分支配の下にあった。詳しく言えば、初めはスペイン・ハプスブルク、のちにはオーストリア・ハプスブルクにである。

(参考文献)注に入れなかったもの
Hellmut Andics, Das österreichische Jahrhundert..Bd.1, Wien-München.
テイラー『ハプスブルク帝国』筑摩書房。
リケット『オーストリア史』成文社。
ツェルナー『オーストリア史』彩流社。
藤沢道郎『物語イタリアの歴史』1,2。
『フランス史』山川出版。
Hugo Hantsch, Geschichte Österreichs..2 Bde. Wien

小生のハプスブルク研究関係著書の1部分
『ハプスブルク歴史物語』NHKブックス 1994年
『ハプスブルク オーストリア ウィーン』成文社 2001年
『ハプスブルク文化紀行』NHKブックス 2006年
監修 マホフスキー『革命家皇帝ヨーゼフ2世』藤原書店